March 20, 2021

冒険する人、慎重な人。

 リスクの認識には本能的に個人差があって、それは動物としてのヒトの生き残りに意味があったのだと思う。神経質で怖がりなタイプは生活の維持や子育てに有利だったはずだし、冒険的で怖いのも知らずなタイプは生活圏の拡大や新しい食料の獲得に貢献したはず。だから今でも、冒険的なタイプから慎重なタイプまで、人のリスクの認識には幅があるんだろうね。

 しかし動物としてのヒトは大きく進歩して、知能を駆使し自然を分析し理解する種となり、かなりのところまで科学的、定量的にリスクを評価できるようになりました。社会全体として、人類として、より有利なリスクの取り方ができるようになったはずです。

 そうすると、科学的、合理的なリスクの取り方が、個々人の直感に反することも出てくる。合理的に考えれば安全なんだけど安心できない、みたいなね。

 みんなの利益、よりよい社会のためには直感に反することでも乗り越えていく必要があるでしょう。いつまでも「お気持ち」優先ではいけないし、そこにリスクコミュニケーションが期待され、マスコミの役割が重要になるはずなんだけどな。

 とはいえ、マスコミもボランティアじゃ維持できないし、収益を考えなくちゃならない。収益考えたら娯楽、お気持ち大事だし、難しいね。

March 14, 2021

2011年3月11日、僕は在留邦人でした。


 あの日僕は南アからロンドンに移動していて、ヨハネスバークの空港のテレビで津波のニュースを見た見ず知らずの人たちから「お前は日本人か?大丈夫か?」とたくさん声をかけられた。

 ロンドンのホテルで受付のお兄さんが、普段は有料のインターネット接続を無料にしてくれて「これで日本のニュースを見れるよ」と。

 ロンドンの事務所での用務を済ませて、あとはホテルの部屋でネットばかり見てた。「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と日本語で書かれた英字紙が届けられた。

 素直にその気持ちがありがたかった。

 僕の親戚縁者は九州に集中してる。当時の同僚の日本人もなぜか西日本出身者ばかりで、生命財産に直接被害を受けた人が周りにおらず、当事者感覚が薄いと言われればそうかもしれない。

 それでも、何もできず、何もする気にならず、ただただ気を揉んでいる間に時間は過ぎていった。

 2011年3月11日、僕はTwitterで一言だけツイート投稿している。

 「祈るしかない。」

March 07, 2021

10回目の3月11日を前に。


 はっきりした四季の移り変わりで時の流れを五感で覚える。

花が咲き、花が散るのを見て、何事もとどまることなく移りゆくことを知る。

時には大雨、大風、そして地震、また火山の噴火に襲われ、変わらないと思っていたものも果敢なく失われることを思い知らされる。

形あるものはいつかは壊れることが前提。永遠の時に耐える建物ではなく、木と紙の家を建てた人々。

それなりの月日が経つと社ごと建て替えてしまうことをしきたりとして、式年遷宮を行うお宮は伊勢神宮だけではない。天皇の代替わりという国の一大儀式であるはずの大嘗祭をその時のためだけに建てたお社で執り行い、式が終わると解体してしまう。

(そんな国に、世界でもっとも古い木造建築が現存し、百年どころか数百年、中には千年の歴史を誇る会社組織が多数存在しているのが逆説的でおもしろいのだけど。)

むしろはかなさを内に取り込み、時々に万物の営みを愛で、嘆き、喜びも悲しみもただそのままに受け止める。その心持ちこそ「もののあはれ」なのかなと。

そして僕たちは、明日も生きていく。

*   *   *

東日本大震災10年の節目。

February 23, 2021

色褪せた暮らし。


 


 優に1年を超えました。新型コロナ感染症が騒ぎになってから。

 誰かが「色褪せた暮らし」と表現していて、まさにそうだなと。

 仕事にも私生活にも大きな変化を強いられ、中には大変な苦境に陥る人もあり、経済もガタガタ。しかし大方の人はぶつくさ言いながらも生き延び、なんとか暮らしを守ってる。「不要不急」と言われたものが生活の中から消え、人との出会いが減り、会話が減り、雑談が減った。なにしろ今の日本は単身世帯が35%を占めていて、家族以外と会うなと言われたら一人になっちゃう人が少なくない。それでもみんな生きている。食べて、人とあまり会わずに仕事して、寝る。

 綾波レイかよ。

 戦争や大震災の時みたいに暮らしが破綻したわけではない。その気になればオンラインであれば人と話はできる。暮らしは回っている。なんなら株価は30年来の最高値。

 それでも、だ。色が、彩(いろどり)がすっかり失せてしまった。味気ない日々。

*   *   *

 生物種としてのヒトが人になったのは、死を認識するようになってからだという説がある。動物は死を認識しない。今を生きているだけ、眼前にある環境に最適な反応をしているだけの有機的なシステムで、システムが劣化、老化して動作が止まってしまえばそこまで。ところが人は、生体活動が停止して生物が物体に変わるのを見て、そこにあった意識や人格、知恵や経験、その人の存在が失われてしまうことまでも意識する。


 先史時代の墓所の遺跡を分析すると、人骨とともに花粉の痕跡が検出されることがある。死を認識した人が、亡くなった家族に、同胞に、花を手向けた証拠だという。

 色だ。花の色。

 言ってみれば、花を手向けることも「不要不急」。花を供えたからといってお腹いっぱいになるわけでないし、敵から逃れられるわけでもない。でも、人は色を添える。

 人は不要不急のことで人たりえている。人は色を愛でるから人だ。

「色褪せた暮らし」が終わるのが待ち遠しいね。

December 31, 2020

さよなら2020年。


2020年。
そろそろまた海外暮らしかなという予感もあって、元々変化の年だと思ってましたが、こんなことになるとは。
どうしたものかと思い悩んだものの、結局は身動き出来ず待機、待機、様子見の日々。
そんな最中に母が亡くなりました。
これまでとは違う時代、違う自分への移行期となる1年だったように思います。
お世話になったみなさま、ありがとうございました。出会ったみなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

The year 2020.
Although It was anticipated that I might start a new life overseas and it would be a year of changes, I didn’t expect a year as such.
I pondered a lot but what I could do was just waiting, waiting and looking around.
During that period, my mum passed away.
I think the 2020 was a year to shift towards a new, different era and different me.
Thank you for your kind support in 2020 and I’m looking forward to enjoying a coming year together with you.

December 01, 2020

グアムに来ています。

 

 日本では新型コロナ流行の第三波がメディアを賑わせているところですが、グアムに来ています。グアムに来ていると言っても、飛行機が着陸したら即、機側から関係者に付き添われ、あっという間にホテルまで直送されて隔離されてます。東京を出る直前のPCR検査でも、グアムで受けたPCR検査でも陰性なのですが、隔離されてます。

 たしか2019年11月が新型コロナ流行前の最後の海外出張でしたので、それから約1年。それまでは海外出張の合間に海外旅行に行くようなことをして、2か月に1回くらいはどっかに行ってるような生活でした。なので丸々1年まったく国外に出なかったのは久しぶりなのですが、出国したとはいえホテルの部屋からは出られないので、あまり意味はないですね。


 誰しもがいつもと違う1年を味わう羽目になった2020年でした。12月になったばかりで2020年はまだ1か月残っていますし、まだこれからもおおごとが起きそうですが、個人的にももうここまでで十分、身心に重くのし掛かる出来事が続きました。

 予定していた仕事が新型コロナの流行を受けてぽつぽつと延期や中止となっていた年の初め、久しぶりの海外勤務を打診され、4月にはそれが確定。しかし実際にはいつ赴任できるかは目処が立たず、基本的に国内待機。ちょうど緊急事態宣言が出てた時期に重なり、身動きができない状態に。
 収入は減ったものの幸い独り身で食うに困るほどではなく、とはいえいつ赴任が可能になるか見通しが立たず、住むところをどうするか問題が浮上。赴任時期が確定していれば今の住処を退去する時期も決められるけど、いつまで東京にいなくちゃいけないのかはっきりしない状態でどう住むところを確保するのか。家財はどう処理するのか。

 3年余り福岡の実家で入退院を繰り返していた母の体調が芳しくないとの連絡を受けていたのもこの頃。一方で僕の海外赴任がいつ決行になるのか分からない。おまけに新型コロナ流行のせいで県境を越える国内移動は控えよという圧力。簡単に福岡に戻るわけにもいかない。

 そもそも中東やアフリカの経験が長い僕の久しぶりの海外赴任が大洋州になったのは、母の容体を考えると出来れば日本に近い、往来しやすいところがいいと考えたためだったのに、何が何やら分からなくなってしまいました。


 9月に母が他界。この時点でまだ僕の海外赴任時期はぐずぐずと調整が続いていて、なんだかんだ言いながら福岡に戻って母の最期を見取り、葬儀にも立ち会うことができたのはまさに字義どおり不幸中の幸い言えました。それどころか、少し早めにやった四十九日の法要まで日本にいることができました。いずれも感染防止のためできるだけ参列を遠慮していただくようみなさんにお願いして静かなものになりましたけれど。

 そして11月。それも11月16日になって19日に出国できる手筈が整ったとの連絡を受け、実質3日間で慌ただしく身辺整理。しんみり感傷に浸る間もなく成田からグアムに移動して、今に至ります。そしてこの後、最終目的地到着まではまだしばらくかかりそうです。


 例年に比べて自殺者が大幅に増えてしまうほど、たくさんの人たちの生活が狂ってしまった2020年。自分こそは大変だったと自慢しても詮無きことですが、世の中こんな境遇に陥った人もいる、ということでメモ残しておく次第です。

September 29, 2020

母が亡くなりました。

母が最期に見た景色。福岡タワーとドーム球場。


母が亡くなりました。
明日が72歳の誕生日という日でした。

親より早死にしない限りみんな経験することだし、母を失う心情は古来より文才のある多くの人が優れた筆致で綴っていることなので、あえて僕が何か書くことではないのかもしれないと思いつつ、さりとてやはり人生にただ一回のユニークな出来事であり、思うところは書き付けておきたいと思いました。

*   *   *

複雑な劣等感を抱え、天邪鬼で、付き合いの難しいところもあって、理想的な母親とは言えない人だったかもしれませんが、僕を産んだ人であり、育てた人であり、いつも僕を気にかけてくれてた人であり、また僕が常に気をかけてきた人でもあり、その人がこの世界からいなくなるという喪失感は重いものがあります。葬儀を終え、初七日を終えても、身の回りのほんの些細なことにつけていちいちあの日あの時の母の様子が思い出され、手が止まってしまいます。

特に病気の診断がついてから息を引き取るまでの3年9ヶ月は、不治の病だということもあり、自分の感情を自分で面倒見ることができず、周りに不満を撒き散らし、いっそう扱いの難しい人になっていました。経験もしたことないのにおいそれと「分かります」とは言えないですが、そうなるのも無理からぬことだとは思います。人生が終わるのですから。

それでもあの人が何を考えていたのか。決して恵まれているとはいえない境遇に生まれ、幼い頃から弟たちの世話や家事に明け暮れ、早くに働きはじめて職場で知り合った父と結婚し、多くの月日を子育てや祖父祖母の世話に追われた人生の中で何を思っていたのか、最期に「よかった」と思って旅立つことができたのか、考えても詮無きこととはいえやはり母の人生を思わずにはいられません。

*   *   *

葬儀でお経を上げてくれた浄土真宗の導師は、死を認識するのは人間だけだと話されていました。もしかしたら大型類人猿も認識しているのかもしれませんが、大まかに言ってそのとおりなのでしょう。

宇宙に散らばった原子はやがて星を形成し、星の上では複雑な分子が形成され、そこから有機物が生まれ、生物が生まれる。生物は進化の過程で神経系を発達させ、脳という器官を生み出しました。そして地球という惑星の上での生物の生存競争の果てに、ヒトという生物は「意識」を持つようになりました。「意識」とはなんなのか今ひとつよく分かりませんが、とにもかくにも自分という存在が生きているという自覚を持つようになったのです。

僕らの意識、精神の働きは脳や体を構成する原子、分子の構造やその中を行き交う電気の刺激に還元できるのか、それら原子、分子の足し算だけでは説明できないものなのか。説明できないという人は、そこに霊魂の存在を見るのでしょう。

母は亡くなりました。

しかし僕は、そこに霊魂の存在を見出さない、科学を尊ぶ種類の人間です。母の体は病に冒され、生きている人としての有機的で動的な生命活動を維持できなくなり、意識は薄れ、やがて身体の代謝も停止したのだと理解しました。

ただ、無に帰ったのだと考えています。

お経を上げてくれた導師は「みんな御仏になって」とか仰っていたし、家族や親戚も母は先に亡くなった祖父母や叔父たちとやっと一緒になれるでしょう、という話をしています。そう考えた方が救いがあるかもしれません。「意識」を持つようになった人間は、あまりにも不可思議・奇妙な世界、特に死という現象、言い換えれば「意識」の停止という現象に押し潰されないために神とか来世とかの概念を導入し、宗教を必要とするのだと思うのです。

母は亡くなりました。

しかし母の記憶は僕の中に確かに残っています。母と関わった人々の中に、あるいは母のことを聞いた人、見た人の中にも、記憶として残っています。そして記憶というものも、その仕組みはまだ完全に解明されていないにしても、僕らの脳の中に蓄積された細胞や分子や電気信号の繋がりであることは間違い無いと思います。その意味では、母の存在は多くの人々の記憶として、すなわち多くの人々の脳の中の構造として生きていると言えるでしょう。生命活動を行う実体としての母の肉体は終わりを迎え、その意識は失われてしまいましたが。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人がその人の存在を忘却した時。」と言います。僕の母は肉体的には死を迎えましたが、僕が生きている限り、二度目の死は来ないのです。

*   *   *

祖父、祖母が亡くなり、母の弟たち、すなわち僕の叔父たちも亡くなり、この理不尽な「死」という現象に向き合うことを少しづつ理解し、いつか来ることが分かっていた母の死にも向き合おうと思っていたのですが、やはり実際に迎えると寂しいものです。ややもすると理性が勝ち過ぎるきらいがあり、「死」というものを科学的、合理主義的な視点で見る僕でさえも、母がいなくなることで感情は掻き乱されます。何を見ても、何もやっても母の影がちらつき、手が止まります。母が息を引き取った日の夜は、母のそばを離れ難く、ずっとその顔を見つめていました。

しかしそしてまた、こうして母が亡くなるという経験を経て、やがてくる僕自身の「死」についても準備が進むような気もしています。

*   *   *

この度の母の逝去にあたり、あたたかいお悔やみ、励ましの言葉をいただいた方々に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。正直たいへんでしたが、そして今もたいへんではありますが、僕は元気です。

May 15, 2020

ラダック再訪。(2)


前回からの続きです。)

 世の中にはキルギスとかブータンとか、日本人とよく似た風貌の人たちが住むところがありますが、ラダックもそのひとつ。地元の人たちには驚くほど日本人な人がいます。定食屋でビリヤニを食べてたら店に入ってきた数人の軍人さん、その中の若手くんなんか、「近所の高校のサッカー部の部活の帰りです」と言っても違和感ない。日本語を解さないのが不思議なくらい。

 反対に、今回泊めていただいたNyamusyan House Homestayを切り盛りしてらっしゃる池田悦子さんは川崎のご出身、3人のお子さんもみんな日本で生まれた日本人なのに、違和感なくラダックに溶け込んで暮らしていらっしゃる感じでした。一番上のお姉ちゃんが学校に持っていくお弁当が不満だったらしく「ここは日本じゃないんだからあ!」とママに文句言ってたのはご愛嬌。

*   *   *

 Nyamusyan Houseを拠点に1泊2日で小旅行に出かけました。標高が高いところでの本格的なトレッキングは自信がないので、車で途中まで連れて行ってもらって、まねごと程度に半日ほど山歩き。スタート地点からして既に標高3,500m前後、いつもは都内の海抜30mくらいのところで生活している僕には空気が薄くてツライので、そのくらいで勘弁してもらいました。車でYangthong村まで行って民家に1泊、そこからLikirまで、6,000m級の山々を眺めながら歩きます。







 いやもうね、広大でダイナミックな景色はこの土地ならでは。写真では伝わらないこの地の空気。車の中から見るのとは違って、ラダックの大地を生で感じることができました。やはり少しでも歩いてみるべきですね、ここまで来たのなら。ところどころでこの地の暮らしの様子もうかがい知れて、翻って自分の生き方を省みることになるのも旅の妙趣です。
 ただ、平坦なところはいいんですが、ちょっとでも登っているところはいちいち息が上がってたいへん。一緒に行った友人からも時々大きく遅れてしまいまして。高山病になってるわけではないし、歩けるんですけど、ゆっくりしか歩けない。僕は日本人としてはかなり大柄で、エンジンに比べて重量がある車みたいなものでして。でも、それでもやっぱり歩く価値はありますよ。

*   *   *

 翌日は海抜4,000mを超えるところにある湖、Tso Karまで日帰りドライブ。途中、今回の旅で標高が最も高い5,359mのTanglang Laの峠を越えます。


 峠を越えてたどり着いた先はこの眺め。「わー、広いー!」と水辺に向かって駆け出そうとして、「あれ、変だ。動悸が止まらない…」ここが海抜4,000m超であることを思い出します。うっかり張り切って駆け出してしまうと倒れちゃいそうなので、ゆるゆると散策です。






 前回18年前のラダックの旅ではこの先のTso Moriri湖まで足を伸ばしたのですが、今回は日帰りなのでここまで。前回の時の自分の日記を見てみると、僕はTso Karに着く頃にはかなり疲れていて体調も良くなかったらしく、あんまり周りを見る余裕もなかったようですが、今回は湖を眺めながら熱くて甘いお茶を飲んで、双眼鏡で動物も観察して、ゆっくり過ごしてきました。

*   *   *

 インドの旅はいつも裏切られることがありません。旅の目的はいろいろで、まあ一番簡単に行ってしまえばリラックス、リフレッシュなんでしょうが、インドの旅はなんていうか、頭を初期化するような効用があるように思います。都市の暮らし、日本の暮らしで凝り固まった頭をほぐすような。

 まして今回はラダック。インドと聞いてイメージするような人、人、人の波に巻き込まれることもなく、スケールの大きな自然とそこで生活する人々の暮らしと文化を見せていただくことができました。Nyamusyan Houseを切り盛りする池田悦子さんの思い切りのいい生き方をうかがうのも、自分の生き方を振り返り省みるよい機会になりました。

 実はラダックは意外と近い秘境です。東京からデリーまで飛行機で9時間台、そこから乗り換えてレーまで1時間半くらい。思い立ったら行ける場所だし、夏の避暑にも好適で、また行きたいと思う場所になりました。もちろん都市生活にはない不便もあるし薄い空気も体力を奪うので、誰にでもオススメできるわけじゃないですが、インド旅行が好きだという方は、一味違ったインド旅行として次の目的地の選択肢として検討してみてはいかがでしょうか。ぜひ。




August 25, 2019

ラダック再訪。(1)



 もう20年以上も昔、修士課程を終えた記念にインドを旅行してからその魅力を覚え、幾度となく彼の地を訪れています。ジャンムー・カシミール州、ラダック地方も2001年8月に行っているのですが、2019年8月、ラダックに山岳トレッキングに行くという友人に誘われて再度出かけてみました。本格的な山岳トレッキングは僕の燃費の悪い大柄の体躯には荷が重いので、そこは適当に勘弁してもらいつつですけどね。


 最寄りの空港はレー。デリーからLCCで1時間程度で意外と近い。昨今はインドもLCCの航空網が発展して、どこも行きやすくなりました。今回は空港からさらに車で1時間弱、レーの街からインダス川を挟んだ対岸のストク村に宿泊です。インダスを渡るメインの橋が壊れてしまって使えないとかで回り道、レーからはいつもより少し余計に時間がかかるみたいです。
 このページの一番上の写真はストクの村の遠景。背後に見える雪山はストク・カングリ(標高6,154m)。ストク村(標高3,500m強)でも空気薄くてそれなりに大変なのに、みなさんあんなところまで登りに行くんですよ。



 今回泊めていただいたのはNyamushan House Homestay。ラダックの男性と結婚して現地に移り住んだ池田悦子さんが子育てしながら切り盛りしていらっしゃる民宿っぽいお宿です。聞けば住む人がいなくなってた旦那の実家を改装した建物だそうで。地域で最も古い民家のひとつだそうです。

*   *   *

 東京暮らしは嫌いではないし、今の仕事もそれなりに納得してやっている。時々は友達と外食に出かけ、美味しいお酒など楽しむ。それはそれでいいんですけど、その繰り返しも長くなると、なにかどこか、思考が硬直してくる気がします。こんなんでよかったんだっけ?
 時には日常を離れ、自分の生活を俯瞰する時間が必要なようで、それが僕にとっての旅行の意味でした。インドはその旅先としてうってつけ、もう数えるのはやめましたが、10回以上は来ているはずです。


 初日はまだ薄い空気に体が慣れず、ずっと心臓がバクバクしている状態なので、村の中の旧王宮までゆっくりゆっくり散歩。東京の自宅を出てからまともに寝てない寝不足状態もあって、けっこう息が切れます。自分が老人になったときの疑似体験をしているようでした。
 ストクの王宮は19世紀に建てられ、ラダックの王家の住まいだったところだそうです。今はインダス川の対岸のレー市街を見晴らすことができる博物館になっていました。

*   *   *

 翌日はレーの市街へ。空港も近く、この地域で一番の街です。前回訪れたのは18年も前ですが、来てみるとなんとなく思い出すところがあります。もちろん、開発も進んでいて建物も増えているんですが、「たしかこっちに抜け道があった」「当時からここに観光客向けのレストランがあってビールが飲めた」「ここは建築中だったけど、18年経ってまだ建築中なの?」「あの時泊まった宿はこの道の先の左手だった」と記憶がよみがえります。


 18年前は一人旅でした。上京してから数年経って、でも当時も「こんなんじゃないはずだ」と模索の日々で、都内でまた別の大学院に入り直していろいろとめんどくさいことを考えている頃だったはずです。
 一人旅だったけど、車をシェアしたり、同宿だったり、レーから一緒に遠出したりした旅の道連れがいて、実質は一人ではありませんでした。あの時お茶を飲みながらいろんな話を聞かせてくれたオーストリアの女医さん、もう名前も覚えていませんが、ダラムサラでボランティアで医療活動をしてて、ラダックの僧院を巡った後はアムリトサルの黄金寺院を見に行くとおっしゃってましたっけ。「そこは千夜一夜のようなところで、きっと人生も千夜一夜のようなものよ」と微笑みながら、出会った記念にとマニ車のペンダントヘッドを僕にくれました。


 そのペンダントヘッドは、今、まだ僕の手元にあります。あの時から、夜の数は千回を超えましたね。みんなどこで何をしてるのかなあ。

*   *   *

 そろそろ高地にも慣れてきたところで、レーから120kmほどのところにあるLamayuruの僧院(ゴンパ)へ。18年前は砂利道だった道路はすっかりきれいに舗装されていて、途中休憩を取りながら行っても片道4時間はかからないです。


 途中、ザンスカール川とインダス川の合流地点を通ります。川の水は今は茶色だけど、冬には緑色になるそうです。




 Lamayuruのゴンパ。この地域の総本山みたいな僧院です。盛んに建築、増築が進んでいましたが、「今は僧は150人くらいしか住んでないよ。」とのこと。

 レーにはレンタルバイク屋がたくさんあって、ラダックのツーリングも気軽に楽しめそうなんですが、18年前にはまだレンタルバイク屋はありませんでした。でも、もぐりでバイクを貸してくれる人はいて、僕はそれでLamayuruまで来ようとして、でも途中でバイク壊しちゃったんでした。雑にギアチェンジしてクラッチパネルを割ったんです。あの頃キミは若かった。あの時、砂利道をバイクを押して歩いた記憶があるので、この道が舗装されていなかったのは確かです。
 それであの日、なんだかんだあってLamayuruの少し手前のKhaltseの村に一泊することになって。同宿のおじさんと一緒に晩飯食べて、片言の英語で家族の話、宗教の話、インドと日本の話などしたんだっけ。「日本に帰ったら、キミの"inner spirit"を書いてよこしなさい。」そう言っておじさんは僕のノートに自分の名前と住所を書いたんです。
 翌日、宿を出ようとしたら、僕の宿代と飯代はそのおじさんによって支払済でした。すいません、18年経ちましたが、まだお礼も言えてないし、"inner spirit"も書いてません。

 今回はLamayuruの帰り途、Khaltse村でドライバーくんとガイドくんとチャイを飲みながら、そんなことを思い出していました。




(長くなりそうなので一旦ここまで。後編に続きます。)

July 14, 2019

モビリティ。


 この「東京トヨタ渋谷店」、前に通った時には外壁に足場を組んで作業中だったんですけど、出来上がってました。

 ああ、やっぱり。そうだよね。「トヨタモビリティ東京」。 

 カーシェア、コネクテッドカー、自動運転車と車を取り巻く環境は急速に変化しており、「車」の概念さえ変化しそうなこのご時世、トヨタのような会社がその先を見てないはずがない。

 そもそも「車」は何のためにあるのか。人や物をある地点から別の地点に移動させるためです。

 逆に言えば、「人や物をある地点から別の地点に移動させる」ことができれば、なにも今の「車」にこだわる必要はない。

 そう、「車」の概念さえ変化しそうなな時代にあって、自動車メーカーが今のまま「車」を作ってればよいという日々は早かれ遅かれ終わる。

 だから、トヨタは「自動車メーカー」から「移動〜モビリティ〜」を提供する会社と自己定義を変えようとしているに違いない。


July 10, 2019

選挙制度の話。

 現与党の安定多数の議会に不満な人が「与党に投票していない人は80%もいる!なのに議会で多数派!おかしい!」みたいな批判をしているのを見ててモヤモヤする。与党に批判的なことはいいんですけど、その批判の仕方としてこれは筋悪じゃないですか。

 そういう批判をする人は、棄権した人たちがもし投票していれば野党に投票していたはずだという根拠なき自信を持っているところから変なんですが、それを横に置いたとしても、やっぱり考えが浅くないですかねえ。

 たとえばですね、各党の得票数の割合と議席数の割合を一致させるとすると、完全比例代表制ということになるわけですが、これも問題でしょうと。仮に国民の1%の支持がある政党があれば、定員500議席の議会では5議席取れる。こんな調子で、数人、数十人の勢力の小党が乱立すると、意思決定できない議会ができてしまうんじゃないでしょうか。政治はどこかの時点で「決めること」が求められますが、数人、数十人の党がわちゃわちゃしてたら、なかなか物事は決められない。それは困る。迅速性に欠ける。

 んなもんですから、比例代表制ながら足切り制度を導入している国もあるそうですよ。たとえば、有効投票数の5%以下しか得票していない政党には議席は与えないとか。泡沫政党や無所属議員を排除してしまうんですね。なるほど。

 しかしその完全比例代表制はなんだかなあということで、その対極にあるのが多数代表制というか小選挙区制ですよね。「決められる政治」を目指すなら、少しでも得票の多い方の党の主張に沿うのが民主的であるから、各選挙区に議席は1つずつにして、そこで一番たくさん得票した人に議席を与えましょうという考え方。

 これであれば「決められる政治」が生まれやすい。世論の支持が他よりちょっとでも多い方の党がごそっと議席を取るので。

 が、これはこれで問題です。そのときそのときの世論の風で各党の獲得議席数が大きく振れがちで政治の連続性、安定性に欠けるかも。また、自分の投票した候補が当選しない、死票が多くなることも悲しい。

 では、というのでその昔、日本でもやっていた中選挙区制なんていうのもある。1つの選挙区に3議席、4議席とかを割り振る制度。これだと比例代表制と小選挙区制の間くらいになるかと思われるのだけど、またこれはこれで問題がある。かつての日本の場合、3議席なら自民、社会、公明、4議席なら自民、社会、公明、共産、みたいに固定してしまう。与党に逆風が吹いてその支持が落ちても、ただ得票数の順番が「自民、社会、公明」から「社会、自民、公明」になるだけで各党の議席数があんまり変わらなかったりする。この硬直性は問題なのではないかと。世論の動向に鈍感でいいのかと。

 それで政権交代が可能な制度として、日本でも小選挙区制が導入されるようになったんじゃなかったっけ。ただ、小選挙区制一本でいくのもまた不安定だから、小選挙区比例代表並立制なんていうハイブリッドなシステムを作ってみたりして。

 どんな選挙制度にも一長一短あるんだと思う。「決められる政治」「安定した政治」「世論の動きに敏感な政治」。バランスよく、かつ公平公正にしなくてはならないので、選挙制度は試行錯誤。他にも、一票の格差の問題とか選挙区割りの問題とか、考慮しなくてはならないことはいろいろあるし。

 日本の選挙制度がすばらしいというつもりはないですけど、一応そういう工夫の積み重ねで今の制度があることには間違いないし、幸い不正も少ない。世の中には、議席の半分を軍が取るとか、議席の半分を大統領が指名するとかいう制度の国だってあって、そういうのに比べたらマシな気がする。

 そうやって工夫を積み重ねて作ったルールの上で、選挙というゲームをやっているわけでしょう。公になっている、みんなが知ることができるルールがあって、そのルールに従って戦って、勝ったところが政権を取るのは当たり前じゃないですかね。

「与党に投票していない人は80%もいる!」と批判したところでなんら説得力はないじゃん。そういうルールなんだから。

January 25, 2019

アフロ・ジャズ



 Oliver Mtukudziが亡くなった。享年66歳。

 といってもほとんどの日本人は彼を知らないだろう。僕も詳しくは知らない。 

 「有名なミュージシャンだよ。」

 そう誘われてコンサートに行ったんです。日もすっかり落ちたハラレ市内の屋外ステージ、盛り上がってました。それでなんとなく、CD買って帰ってきたんです。

 ギター、ドラムにシンセサイザーの電子音。土着の音楽に根差した反復の多いメロディライン。正直、そこまで凝った作りの楽曲ではない。歌詞は一部英語だけど、ほとんどショナ語で意味分からないし。「アフロ・ジャズ」と言うそうな。

 それでも、聞き直す度に、あれが僕にとってのアフリカのリズムだったなあと郷愁を掻き立てられるのです。

 肩の力の抜けた、人懐っこい人々。だだっ広くて埃っぽい大地。それをそのまま写したような音楽を作る人でした。

 今日はジンバブエや南アフリカのメディアだけでなく、イギリスBBCもその死を悼む報を流しています。

 まあ、ムガベ大統領時代の世相をおちょくるような歌を唄ったり、unicefに楽曲で協力したりもしてたみたいですけどね。

 https://itunes.apple.com/jp/album/wonai/1206939787

 ご冥福をお祈りして、今日はこのアルバムを聞きながら南アフリカのワインを一杯。



December 31, 2018

2018年の忘年会。


忘年会。「それぞれの今年の三大ニュースはなに?」という話が振られまして。

ただ慌しく、でも漫然と2018年を終えたような気がしてたけど、改めて振り返ってみると、それなりにいろいろあったなあと。

いい事ばかりではなかったけれど、その分、この後を生きていくための心持ちが徐々に固まってきたように思う、そんな1年でした。

今年もお世話になりました。
みなさん、よい新年をお迎えくださいませ!


It was asked “What were your personal 3 biggest events in 2018?” at a year-ending party.
Once I thought my 2018 was just busy and one of the ordinary years of mine, but there were lots of significant events, actually.

Not all of them were good ones but they were relevant opportunities for me to think about how to live my life in coming years.

Thank you all for your kindness in 2018 and a happy new year 2019!!

December 02, 2018

30年。


 高校卒業から30年の節目が近付いてる。
 我が母校は卒業30年目の学年が幹事学年として1年間、様々なイベントを取り仕切るしきたり。
 現役高校生の後輩たちのための社会人講演会とか、地元福岡のほか関西や東京で開催する同窓会とか。

 同窓会、これが結構な規模で、東京の同窓会でも700人とか集まる(集める)大宴会になるので、幹事も実行委員会を作ってやるレベル。有名人や大物になってる卒業生もいるし、限定グッズやタイアップ商品も作るし、そもそも会場も1年以上前に押さえなきゃいけないし。
 そんなことで、実行委員会からしきりに動員がかかってまして、出来る限り協力していこうと思ってます。出来る限り、ですけどね。
 当時、高校の運動会も割と大掛かりで、地元テレビ局の取材が入るレベルでした(今は知らんけど)。 観客席になる雛段状の足場を組んで、その上に横9m、縦3.6mのパネルを設置して絵を描くんですが、これが4つ。そのうちの一つの下絵を任されたのはいい思い出です。
 画像はその時の下絵(パネルの1/15サイズ)をスキャナーで取り込んだもの。懐かしいなあ。こういうものを振り返るお年頃になりましたよ、僕も。

November 10, 2018

そりゃそうだけどさ。

 そのジムでは、「器具を使った後は備え付けのタオルで拭きましょう。」というルールになっていて、それぞれの器具のところにハンドタオルが置いてある。

 ある時、若い男性が器具を拭かずに立ち去ると、「おい、ちゃんと拭けよ。」と絡む五十過ぎくらいの男性がいて、辺りが一気に気まずい雰囲気。僕は見てたんですが、その若い男性は今ジムに来たところで汗もかいてないし、その器具でちょっとウォーミングアップしただけなんですよね。別に器具に汗を残したわけじゃない。

* * *

 その通りは中央分離帯が植え込みになってて、車で脇道から出てくると右折も直進もできない。左折のみ。ただ、大して車も人も多くないところなのに歩道はかなり広いので、自転車で脇道から出てくると、右折して歩道を50mほど逆走すれば、信号を渡ってその通りを横断できる。

 ところがその50mの区間で、「おい、なに逆走してんだよ。」と絡む男性がいる。これも五十過ぎか六十くらい。いきなり他人から大声で凄まれれば、頭に血が上るのも分かる。

* * *

 「規則」という点から言えば、いずれも他人に注意し絡んでくる男性の方が正しい。正しいんだけど、そりゃそうなんだけど、それでだれか迷惑しましたか? 規則上文句が言えない立場から他人を罵って、気持ちよくなってませんか?
 規則ではそうなっているという状況で、相手が反論しづらいところで、相手を叱責する。そういうことがあちこちで起きてて、なんだかギスギス、息苦しくしてると思うんですよね。

 しかし、外形的には他人に絡んでくる人の方が正しいことになってしまうので、なかなか指摘しにくい。ブログでこういうことを書いても、「あなたは規則を守らなくてもいいと言うんですか!」「違反者の肩を持つんですか!」というレスが付く気がする。

 息苦しいなあ。通勤電車の「お客様どうしのトラブル」っていうのも、こういう感じなんだろうなあ。

 で、なんでかこういう正義を盾に他人を叱責する人って、中高年の男性が多いように思うんですが、どうなんでしょうかね。くわばらくわばら。

October 26, 2018

ジャーナリストの人質事件についての会話。

>>安田純平氏の件ってどうなんですか? 私は、戦場ジャーナリストを名乗る以上、自身のセキュリティには最大限注意すべきだと思ってます。カタールが払ったという3億円の身代金も……。
>>私の考えが歪んでいたらごめんなさい。
>>でも、自分の行動で、他人様に迷惑をかけるって我慢ならない。しかも、3回目! 日本の報道を見てると、ジャーナリストは支持してますね。彼を。

>彼のこれまでの発言、行動を見ているととても支持できないし、「いい加減にしろ」「自己責任だろ」と言いたくなるのも分かります。僕も「なんなんだこの人は」と思う。
>でも、それでも、そんな人間でも、海外でヤクザな犯罪集団に拘束されたとなればその解放に最大限可能な努力をするのが国家であるし、それがあるべき姿だと思います。 >たとえ一納税者としては腹立たしく思えたとしても、国家の威信と信頼を維持するためには必要なコストだと思いますよ。

>>なるほどね。
>>今回の事件と離れますが、湯川遥菜さんのときには、あんまり日本政府は熱心に動いたようには見えなかったけれど、それは高度の国際政治的問題から実は隠密裏にやっていたんだけど間に合わなかった・・・、ということなんでしょうか。

>>それと、カタールが3億円?の身代金を払ったということなんですが、カタールがたまたま金持ちだったからよかったようなものの、日本政府は絶対に払わない、という姿勢だよね。最大限可能な努力、というのは、「金を払わないで」という前提となると、なかなか解放交渉はシンドイのではないかと思うのです。私個人は、国家が身代金を払えとは思ってないです。ただ、先方が金を要求する以上、いくらなんでも交渉に限界があるのでは、という意味。

>「最大限可能な努力」も限界はあるのですが、努力しているという姿勢を見せることが大切なんではないでしょうか。

>実際上は手詰まりになって、だからいつまでも解決しないまま時間が過ぎていくわけで。 >身代金については、これは本当に払ったかどうか分かりません。「身代金の要求には応じない」が正攻法であり、払わないから解決しないし、場合によっては人質が殺害されることもやむなし、というのが正しいとされていますが、実は裏でこっそり払っている可能性は否定出来ないです。アメリカでさえ、「絶対払わない」と言っていたのに、事件解決後何年も経って、実は払っていたことが暴かれたケースがあり、欧州諸国も実は払っていたのではないかと疑われる事案があると聞きます。 >今回はカタールが払ったことになっているそうですが、実際は誰が払ったのか、あるいは誰も払っていないのか、分かったもんじゃないです。

>>なるほどね。身代金のことは、だれもわからない・・・それはそうだわね。
>>日本の報道機関の論調だと、ジャーナリストなんだから英雄だ・・・という感じなのですが、民間人だろうがジャーナリストだろうが、日本政府としては同じ扱いということだよね。
>>ジャーナリストといっても、単に目立ちたがりの冒険野郎の自称ジャーナリストの人もいるだろうし。
>>とにかく政府は「日本国民を見捨ててません。努力してます」という姿勢を示すことは大事で、今回は、幸いにも結果が伴った、ということでしょうかね。


>どんなに愚かしい人でも、どんなに政府に批判的な人でも、政府は国民を守るという姿勢を取ることが必要だと思います。 >どんなに馬鹿で自己責任で貧困に陥った人でも、政府にはすべての国民に福祉を提供することが憲法上求められるのと同じでしょう。


>>なるほどー。
>>ということになると、ジャーナリストと民間人は、あまり違いはないということだね。


>政府は、ジャーナリストは民間人に分類していると思います。一般旅券所持者は民間人かな。あるいは軍人でなければみんな民間人。

>っていうか、報道機関がジャーナリストを民間人と区別して英雄扱いしてるのなら、そこが変。英雄のジャーナリストもいれば、愚かなジャーナリストもいる。 >医者だから、サラリーマンだからという肩書だけではその人の偉さは測れないのに、ジャーナリストの自分たちは特別であると自分たちで報じているなら、その選民意識が人々から嫌われる理由の一つではないかと。

>>それだ!


July 14, 2018

伊豆七島、式根島。

 


 その週末は西日本を中心に記録的な大雨の被害が広がり、私の実家も一時避難指示対象地域に入ってしまうという週末でしたが、心配すること以外にできることはないので、予定どおり伊豆七島は式根島にスキューバダイビングに行ってきました。


 金曜深夜に竹芝桟橋を出港する頃には東京の雨は上がり、大島を通り過ぎる頃には「さるびあ丸」の甲板から水平線上の穏やかな朝焼けを眺め、午前8時、式根島の野伏港に入港した時には真夏の日差しがまぶしかったです。



 ダイビングはものすごく久しぶりで、スキルの再確認も必要だし、そもそも年食って体型も体調も変わっているので以前を同じ事ができるのかどうかも心配だしということで、午後からゆっくり、ビーチエントリーのやさしいダイビングを2本の予定。なので、午前中は原付バイクを借りて島を一周りしてみました。


 リアス式海岸に囲まれ、ところどころの入江ではエメラルド色の海が涼しげです。



 聞けば、先史時代から平安時代の遺物も出土しているそうで、この島に古くから人がいたことが分かります。江戸時代にも八丈島に渡る時の風待ちのために船を入江に入れたり、隣の新島の人々が漁に来たりしていたようですが、改めて定住者が入植したのは明治21年(1888年)のこと。昭和12年(1937年)の開島50周年の碑と、昭和62年(1987年)の開島100周年の碑が建てられておりました。


 4世帯8人が入植した当初は真水の確保に苦労し、3年がかりで掘った「まいまいずの井戸」。現在は新島から海底に敷設したパイプを通じて真水が送られてきているそうです。

 現在の島の産業は漁業と観光業。
 小型漁船で近海の魚を捕っているそうで、いろんな種類の魚が揚がるそうですが、季節になると5kgくらいの脂ののったマグロがうまいという話です。また、タイの養殖も行われている様子でした。しかし、巻き網漁船による大規模漁業の影響で、この島の家族経営的な漁業は厳しいとの話も聞きました。先行きが明るくないので、跡継ぎがいないし、継がせたくもない。いずこも同じでよく聞く話です。


 観光業の方は、釣り客がメイン。海水浴客、私のようなダイビング目的の客もやってきます。島内に何か所かある海辺の露天温泉も楽しめます。




 しかしこちらも厳しいようで、民宿の数は往時の半分くらいになってしまったとのことでした。私が式根島に行ったのは7月初頭のハイシーズンに入る少し前だったので若干割り引いてみないといけないし、また日差しと潮風の強いところで屋外のものが早々に色あせてしまうということもあるんだろうとは思いますが、それにしてもこんな風なギリギリな感じの宿や店が多く、明らかに廃業してしまっているところも目に付きます。

 観光のハイシーズンは夏の約2か月間だけ、台風シーズンになれば客足は落ちるし、冬は暇だしということで、島の人は夏は民宿など観光客相手の仕事をし、それ以外の季節は漁業を手伝ったり、隠れた産業である公共事業に従事したりしているようですが、それもそんなに実入りがよいわけでもなく、先細りを思わせる話でした。

 ということで、いずれにしてもあんまり景気のいい話ではないので、若い人が定着せず高齢化が進み、働き手が高齢化するからまた民宿が閉じるという悪循環。少子高齢化の昨今、日本全国どこでも似たようは話は聞きますが、都内からのアクセスはそんなに悪くないところ(竹芝桟橋から大型船で9時間、高速船で3時間。調布飛行場から飛行機で新島まで40分、新島まら船で20分)にある美しい海と島というアドバンテージを持っているのに、それでも避けられないこの現実。開島100周年、昭和62年には700人を超えていた島の人口は、今は550人くらいだといいます。

 行政もただ傍観しているわけではなく、東京都は人口当たりで見れば破格の予算を離島に割いていますし、平成31年3月末までの期間限定ではありますが伊豆七島の加盟店で有効な電子クーポン「しまぽ」を発行したりもしてます。

 それでこの「しまぽ」、観光客が7000円で購入すると都が3000円の補助を付けて1万円分のクーポンとして使えるという仕組みなのですが、認知度はあまり高くないようで、しかもお店側にしてみると運営側(JTBだそうですが)に手数料をピンハネされるのでちょっともにょもにょしてました。私も式根島に行くと決めてから「しまぽ」の存在を知ったわけで、「しまぽ」があるから伊豆七島に行こうと考える人がどれくらいいるのかなと考えると、若干疑問な気もします。まあ、お得感はあるし、離島振興をがんばっているという広報効果があるとして、それで良しとするんでしょうかね。

* * *

 とはいえ、エメラルド色の海、亜熱帯のハイキングコース、近隣にはサーフィンに好適な島もあり、しかも都内から近い。金曜の夜に出て、日曜の夕方には戻ってこれる、都内の勤め人の週末エクスカーションにはもってこいの場所です。ご興味ある方はぜひ。おすすめです。

June 16, 2018

電波マンション。




 通勤途中に古い5階建くらいのマンションがあって、そのマンションの前に頭おかしい張り紙が貼られていたり、ゴミだかなんだか分からない荷物が積まれたりしていて、どうも入居者に電波系の頭おかしい人がいるんだろうなと思っていたら、ある日、そのマンションのエントランス前で大声で隣人を罵っている六十過ぎくらいのおばさんを見かけることがあって、「あ、この人だな。くわばらくわばら。」と足早に通り過ぎたんです。

 そのマンションは古くて、どんどん入居者が減って人気がなくなり、やがてそのおばさんしか住んでいないような幽霊屋敷状態になっていたのですが、ついに建て替え。コンクリート打ちっ放しで、かっこよくて機能的そうなマンションに生まれ変わりました。

 ところが。

 その素敵マンションの駐輪場に怪しげな張り紙。通用口付近にゴミっぽい荷物が積まれ始め、キ○ガイのニオイが漂い始めました。そしてある日、マンションの裏側を通る機会があって、見上げたらこの写真。最上階角の一番いい部屋の前の廊下にガラクタ山積み。屋上にもなんかゴミっぽいもの積んでる。

 あの電波おばさん、どうも地権者なのか、建て替え後の素敵マンションにも優先して入居してたんです。
 
 いやー、こんなマンションに住んだら災難ですよ。新築で素敵なマンションだけど、キ○ガイおばさんのせいで台無し。間違いなく、不愉快で不毛なトラブルに巻き込まれる。その状況が眼に浮かぶ。

 ということで、物件を選ぶときには現地で、周囲もよく確認してから決めようね、と改めて思った次第です。

 現場からは以上です。 

March 11, 2018

スーツを買う。

 

 20年ほど前、就職に伴い上京した僕は、近くの紳士服量販店でスーツを買っていました。

 ところが、裾が短かったり、妙な生地だったり、ウェストが太過ぎたり細過ぎたり。会社の人から「ズボンの丈が短くない?」と指摘を受けて恥ずかしい思いをしたりしてました。測って合わせたはずのスーツを、一度受け取った後に再度店に持ち込んで、修正をお願いすることも度々でした。

 そんなことを繰り返していたとき、いつのことだったか、僕は新宿の某デパートの、大きいサイズの扱いが充実したところにスーツを見に行きました。

 応対してくれたNさんという自分の母親くらいの店員さんは、スーツの選び方、ネクタイやシャツ、靴などの選び方や買い方について親身になって相談に乗ってくれました。量販店で買うよりは少し高くついたけど、安心して着られるスーツを、僕はそこで買いました。

 次のスーツも、その次も、Nさんに相談して買いました。Nさんは僕がどんなスーツを持っているのか知っているので、買い足すならこういう生地や色のスーツがいいでしょうと、的を射た助言をしてくれました。

 僕のスーツの最初のワードローブは、Nさんに揃えてもらったようなものです。

 そのうち僕が海外でも仕事をするようになり、日本は冬物の季節なのに海外の出張先や赴任先の気候の都合で春夏物のスーツを注文するという無理を聞いてくれたのはNさんでした。あるいは一時帰国で東京に短期間しか滞在できない時、海外からお店に保管されているはずの僕のカルテを元に予めスーツを作っておいてもらえるようお願いしておき、東京滞在中に出来上がったスーツを受け取るというわがままを聞いてくれたのもNさんでした。

*   *   *

 少し間が空いて、次の季節のスーツを相談しようとそのデパートに出かけて、いつものところで「Nさんはいらっしゃいますか?」と尋ねたら、店員さんが少し困った顔をします。「Nさんは先日亡くなったんですよ。」

 ちゃんとお礼もご挨拶もする間もないまま、Nさんは亡くなってしまいました。Nさんにどんな家族がいらっしゃったのか、どんな人生を送ってこられてのか、僕はほとんど何も知りません。でも、僕の東京生活、職業人生のスタートを支えていただいたのはNさんでした。もう亡くなってから何年も経ちますが、今でも、感謝しています。

*   *   *

 今日また、新しいスーツを作りました。同じデパートの同じところで、Nさんに代わってEさんという男性店員さんに、ここ何年かはお世話になっています。Eさんもプロです。前回スーツを作ったのは1年以上前だったのに、カルテを見ることなく、「前回は裾を後で少し出しましたよね。」「胸回りが少し大きくなってるような気がしますね。」「前回はこのイメージで作ってましたが・・・。」と、手際よく固めていってくれます。

*   *   *

 デパートは構造不況業種だといいます。たぶんそのとおりでしょう。僕が惰性でデパートで買っているだけで、いい専門店が他にもたくさんある、というのもそのとおりだと思います。友人が紹介してくれたオーダースーツの某店も、同じレベルのスーツならそのデパートより何万円か安く買えそうですし。

 でも僕は、たぶん今後もそのデパートの、NさんとEさんのところで買い続けるでしょう。スーツと一緒に、思い出や物語を買うようにね。

*   *   *

 新宿伊勢丹メンズ館の永堀さん、ありがとうございました。江幡さん、これからもよろしくお願いいたします。

January 04, 2018

2018年。


 2018年の正月です。

 実家に帰って家族親戚の顔を見るのですが、親も老い、叔父叔母も老い、存命の祖母はもっと老い、当然ながら自分も老いているわけで、数年前に感じていた「今のままがいつまで続くのか」というぼんやりとした不安が着実に目の前に迫ってきました。

 仕事の上ではもはや十分過ぎるほどに「中堅」で、自分のポジションが固まり、充実はしているもののだんだんと先が見えるようになってきました。若い頃は広がる未来の可能性の中から自分の進む道を選ぶことができましたが、この頃は選んだ道を前進することで手一杯です。

 このまま、日々は流れて行くのでしょうか。

 先が見えているようで、見えていない。今すぐどうこうというわけではないかもしれないけど、このままというわけにはいかない。

 そんな予兆を感じながら迎えている新年です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。